日本初の当たり屋・坂本龍馬の極悪手口を暴く 02

02 疑惑だらけの「いろは丸」

龍馬は決して成功者ではない。しかし、これはオモテの顔だ。オモテでは事業を失敗しておきながら、ウラでは飄々と時代の荒波を乗り越え生き延びてきた。そう、暗殺されるまでは…。

つまり龍馬の生涯は、表と裏の両面から見なければ本質を理解することはできない。その裏の顔を象徴する事件こそ、有名な「いろは丸事件」だろう。

慶応3年(1867年)4月23日、龍馬率いる海援隊のいろは丸と、紀州藩の明光丸が衝突し、いろは丸が沈没した。これによって龍馬は多額の賠償金を得た。この事件の経過を追っていくと、龍馬の不穏な一面が見え隠れする。

そもそもいろは丸は、来歴から怪しい。もとは財政の逼迫していた大洲藩が銃器購入のためにポルトガルから購入した船で、船尾に美人像が彫刻してあったという。しかし龍馬にそそのかされ独断で購入を決めた国島六左衛門という人物は責任問題で割腹自殺を遂げている。このいわくつきの船を、レンタルして商売を始めたのが海援隊だった。

ところが、あろうことか初航海で明光丸と衝突してしまったわけだ。

そして問題の事件当日、衝突直後に龍馬は相手の船の甲板に乗り移り、航海日誌を押収。誘導尋問によって海上を見張る当直士官が甲板にいなかったことなどを糾弾した。これらの積極的な工作により、のちの賠償裁判は海援隊側に有利な状況で進行する。龍馬は国際的な法規に精通しており、それを駆使してこの訴訟問題に勝利したと言われているが、むしろ相手の無知に付け込んだ汚い手口で罠にハメたと言った方が正しいだろう。

実はこの時、いろは丸のほうは夜間航行に必要な舷灯を灯していなかったという落ち度もあったが、そういった不利なことは裁判ではもみ消してしまう。さらに坂崎紫瀾の記した『汗血千里駒』には、龍馬が海援隊士に命じて明光丸の舷灯を海に投げ捨てさせ、「明かりをつけずに航行するのは航海法に背きし証拠」として相手に罪を擦り付ける場面が描かれている。小説とはいえ、坂崎紫瀾はのちに『維新土佐勤王史』という史書も執筆しているだけに、全く根拠がないとは言い切れない。

その後、龍馬は土佐の後藤象二郎と組んで紀州と一戦交える覚悟があったことが、お龍宛ての手紙で明らかになっている。なかなか物騒ではないか。長崎の花街で「船を沈めたその償いは/金を取らずに国を取る」という歌を流行らせて紀州に風評被害をもたらしたことは有名だが、まさにこの「国を取る」というのは脅迫だったのだ。

そして困った挙句に紀州藩が調停を依頼した薩摩の五代友厚も龍馬人脈のひとりであり、敵方の弁護士に依頼したも同然、まさにマッチポンプ状態で8万3千両の賠償命令がくだされた。結局、とても払いきれないと出し渋り、7万両にまで値切ったが、現在の貨幣価値で言えば70億円である。半分は大洲藩に船の代金として支払われ、半分が海援隊に転がり込んだのである。まさに当たり屋の手口だ。

出典:人に話したくなる裏日本史―隠匿された歴史の真相

03 幕末のインテリやくざ につづく

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