坂本龍馬はフリーメイソンだった!? 05

05 空白の4ヶ月とフリーメイソン説

龍馬の生涯には、唯一足取りの掴めない空白の期間がある。それは京都で起こった池田屋事件をキッカケに、神戸海軍操練所が閉鎖になり、幕府に目を付けられた龍馬が海舟の口利きで薩摩藩大坂屋敷に身を寄せていた、1864年12月26日から翌年4月、京都で土佐藩士土方久元に会うまでの約四ヶ月間である。いったいこの時、龍馬はどこで何をしていたのだろうか?その謎を解く鍵は、この後龍馬がとった行動にある。

5月、長崎にやってきた龍馬は小曽根英四郎と薩摩藩家老・小松帯刀を後ろ盾にして亀山社中を結成する。そしてわずか二ヶ月後に、なんと7800艇もの銃を買い付けている。果たしてたった一ヶ月のうちで社中(会社)を立ち上げ、その二ヶ月後にはここまで大きな取引ができるだろうか?甚だ疑問である。むしろ、空白の四ヶ月のうちに準備が進められ、全て整った時に龍馬が京都に現れたと考えたほうがいいのではないか?

さらに、この買い付けの裏には一人の英国人が絡んでいる。それが武器商人でフリーメイソンだったとの噂もある、トーマス・グラバーである。おそらく四ヶ月のうちに龍馬は、薩摩藩の庇護の下、英四郎と再会し、グラバーと引き合わされたに違いない。そしてグラバーは、龍馬に英国の議会制民主主義と自由経済、さらにはフリーメイソンの存在を叩き込んだのではなかろうか。その上で英四郎は龍馬に、亀山社中を持ちかけた。なぜならこの時、薩摩藩は倒幕に向けて英国の最新の武器を欲していたが、幕府の目が光っていてあからさまに買い付けることはできなかった。一方のグラバーも、やはりメイソンだったとの噂のある英国公使パークスと関係があったとはいえ、中立外交を取る英国政府の手前、倒幕派に武器を売ることができないでいた。そこで、白羽の矢が立てられたのが、表向き脱藩していた龍馬だったのである。もちろん、龍馬もこの時にはグラバーに感化され、話に乗った。龍馬がグラバーの日本代理人になり、英国スパイになった瞬間である。

こうして土佐、幕府、英国の三重スパイとなった龍馬だったが、皮肉なことに龍馬が提出した船中八策によってなされた大政奉還が自らを窮地に陥れることになった。龍馬の公武合体論は、幕府からも薩摩からも到底許せるものでなかった。開国が叶った英国は龍馬を必要としなくなり、土佐藩は日和見を決め込んだ。11月15日の龍馬は孤立無援の敵中にあった。三重スパイ、龍馬の悲劇である。

龍馬は、最期の時を迎えたのであった。

 

出典:報道ミステリーTABOO (晋遊舎ムック)

 

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