坂本龍馬はフリーメイソンだった!? 04

04 偽装脱藩し、2重スパイへ

1853年(嘉永3年)、19歳の龍馬は剣術修行と称して、江戸、築地にあった北辰一刀流千葉道場へ入門する。これがスパイ龍馬の、初めての活動である。その目的は、江戸の情報収集と佐幕、倒幕、勤皇、蝦夷に揺れる各藩の動向を探ることだった。当時、北辰一刀流の創始者千葉周作の実弟、定吉が指導していた千葉道場には日本各地から若者たちが集まってきていたため、龍馬はここに計5年、二度にわたって剣術修行の名目で訪れている。その目的がスパイ活動であったことは、道場から与えられた免状が薙刀初等科だけであったことからも明らかであろう。

そしてついに龍馬は1862年(文久2年)、偽装脱藩して土佐を出発する。表向きは土佐勤皇党を結党した、武市半平太の一藩勤皇思想に限界を感じたためとされたが、すべては幕府の目を欺くためだった…。

土佐を出た龍馬は長州荻に向かったあと、江戸に出た。そして脱藩者の身軽さから、幕府の政治総裁職で開明的大名で知られた松平春嶽に直談判し、海防論を訴えた。これが功を奏し、龍馬は春嶽から開国論者で軍事奉行並みの勝海舟を紹介されることになる。龍馬の工作活動が、まんまと成功したのだ。これ以後、龍馬は勝海舟と行動を共にするようになる。そう、ここから龍馬は海舟の手足となり、幕府のスパイとして活動するようになったのだ。

そんな龍馬の姿は1863年(文久3年)、幕府の命で設置された神戸海軍操練所の拡充費用が不足した折に、海舟の使者となり春嶽から五千両を搬出されたことや、翌1864年(元治元年)2月の長崎滞在の際に、海舟と同じ幕府の開国論者で当時熊本郊外に隠居中だった横井小楠の元へ、海舟から密かに派遣されていることからも見て取れる。

土佐藩を偽装脱藩し幕府のスパイとなった龍馬だったが、この長崎藩在中に再び大きな転機が訪れる。そもそもこの龍馬と海舟の長崎滞在は、英国を始めとする外国艦隊の長州攻撃の調停が目的であったが、その最中、龍馬は後の人生を大きく変える一人の人物と会っている。長崎の豪商で薩摩藩御用達商人、小曽根英四郎。後に龍馬が設立する日本初のカンパニー、亀山社中の後ろ盾となる人物である。この英四郎との出会いが、龍馬をさらにもう一人の男に結びつけ、英国のスパイへと変貌させていくのだった。

 

出典:報道ミステリーTABOO (晋遊舎ムック)

 

05 空白の4ヶ月とフリーメイソン説 へつづく

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