坂本龍馬はフリーメイソンだった!? 03

03 暗殺2日前に出された不可解な手紙

1867年(慶応3年)11月15日、龍馬は京都近江屋で十津川郷士を名乗る複数名の刺客によって、陸援隊隊長・中岡慎太郎とともに暗殺される。龍馬の船中八策が元となった、大政奉還がなってわずか1ヵ月後のことだった。

この2日前、11月13日、龍馬は最期となる手紙を書いている。宛先は、紀州藩士で海援隊に属し龍馬とも親交の厚かった陸奥宗光。この手紙が、いつも機知とユーモアに富んだ手紙を書く龍馬とは思えぬ非常に奇妙なものなのだ。要約してみると、次のようになる。

一、差し上げようとしている脇差は、まだ大阪から使いが戻らないので、いつになるかわからない。

一、(陸奥が)持ってこさせた短刀は、私のより良いものだ。刀の中心(なかご)の銘及形の質や形も確かである。大阪で研いだ刀が返ってきたら、お見せしよう。

一、私の長脇差を見たいとの希望、お見せしましょう。

 

このように手紙は、「脇差」「短刀」「長脇差」、三振りの刀について書かれたものだが、『あやつられた龍馬』の著者、加地将一氏は、これを暗号だと看破した。その上で加地氏は「脇差」=薩摩藩西郷隆盛からの情報、「短刀」=英国公使ハリー・パークスからの情報、「銘及形」=英国公使書記官アーネスト・サトウからの情報、「長脇差」=長州からの情報とし、龍馬はこれらの情報を手に入れることができる、スパイ・エージェントだったと断定している。

青雲の志を持った、龍馬がスパイ!?そんなバカな!誰もがそう思うだろう。だが、龍馬の活動には不可解な点が数多い。脱藩後の薩摩、京都、大阪、江戸などへの移動費をはじめとする、飲食費、宿泊費、通信費は一体どうやって工面していたのか?

藩を離れてしまえば、なんの援助もない一介の素浪人である。まさか、現代のようにバイトしながら旅を続けていたはずもなく、龍馬の活動を支えた資金の出処は全くつかめない。もう一つ、龍馬は旅先から数多く故郷の姉、乙女に手紙を送っていたが、その家族たちも龍馬が脱藩したにもかかわらず、咎めを受けた様子はない。脱藩が大罪で、犯せば家族にまで累が及んだ時代に…。これはおかしいではないか?これこそ、龍馬が土佐藩のスパイだった証拠である。脱藩は、より自由な活動をするための偽装だったと思われる。龍馬の活動資金の多くは、土佐藩から調達されていたに違いないのだ。

出典:報道ミステリーTABOO (晋遊舎ムック)

04 偽装脱藩し、2重スパイへ につづく

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